彼は都心から離れた、山の見える場所にある老舗ホテルに昨晩から宿泊していた。
周囲は寂れていて何もないが、ホテル自体は洒落た洋館で、年月がたってだいぶ古めかしくはなっているものの、品格がある重厚なつくりをしている。
郊外なだけあって庭もロビーも宿泊室も広々としていて、居心地はなかなかだ。
彼が泊まっているのは、その中でも最も広い部屋のうちの1室だった。広い敷地のうち、1階の半分ほどの面積を占めるその部屋は、ロビーから黒いスチールの門をあけ、重厚なマホガニーのドアをあけたところにある。広々とした部屋には、入口の反対側に専用庭が設けられ、ホテルの裏側の出入り口に出られるようになっていた。
気持ちの良い朝だった。昨晩少し夜更かししたせいか、だいぶ近頃は冷え込むようになってきたせいか、寝心地の良い真白な布団から抜け出すのが惜しくて、自然寝坊気味になる。
しかし今日は出掛ける用事がある。もうそろそろ起きなくてはならない。
仕方がない。彼はしぶしぶベッドをおり、シャワーをあびることにした。
バスルームの扉の前で寝間着をぬぎ、バスタオルを掴んだところで、視線を感じた気がして、彼はふとそちらに目をやった。
いつのまにか部屋のドアが開いている。その奥にはロビーとレストランがあって、そこで朝食を楽しむ老婦人方の姿が見えた。
彼はあわてて扉の陰に隠れる。部屋の中が丸見えだ。何故ドアが開いている?
閉めてこなくては。彼は仕方なく大きなバスタオルをすっぽりと身体に巻いて、ドアのほうに向かった。
と思うと、部屋の中に見知らぬ客が入ってきているではないか。3・4人の男女が談笑しながら、リビングルームのソファを眺めて感心していた。
彼はまた慌ててバスルームの扉の陰に隠れた。
なんだ?どうして勝手に入ってきているんだ?私の部屋なのに。
とにかく服を着よう。こんな格好では間抜けにもほどがある。
しかし昨晩脱いだ服をどこにしまったのだったか。見渡す範囲にはない。
時計の針が目に入った。出掛ける時間が迫っている。
まったく、こんなことをしている場合ではないのに!
彼は服を探して、シャワールームの扉を開けてみた。シャワールームはこの部屋全体からするとさほど広くない。普通の大きさだった。さびた銀色のシャワーが上方についていて、5・6本の管がのびている。その下には古びたバスタブが置いてある。窓はなく、壁は妙に陰気で暗く、冷え冷えとしていた。
彼は顔を顰めて扉を閉め、隣の扉を開けてみた。こちらも薄暗いバスルームだった。やはり古びたバスタブが置いてあったが、こちらは吸血鬼でも入っていそうな棺桶型をしていて、なぜか壁に斜めに立てかけてあった。
彼はなんだか酷く気分が悪くなった。なんだっていうんだ。今朝まではあんなに気分がよかったのに。
そうこうするうちにも、不躾な来客の人数はどんどん増えていった。
彼は広い部屋の隅をうろうろしながら、とにかく服を探してさっさと出掛けてしまおうと思っていた。しかしどこを見渡しても、目当てのものはみつからない。
今や見知らぬ客の集団は観光地のような人数になり、中にはあからさまにツアーのような案内人がいる集団さえいた。しかし観光客たちは、彼のバスタオル姿にはほとんど関心がないようだ。部屋の中を思い思いに見学しては、立派な調度や細部の造りに感嘆の声をあげている。
部屋のデスクのあたりを探しているとき、彼はそこでようやく、この不躾な一団が勝手に入室している理由を知った。そこにはこんな紙が置いてあった。
「この宿泊室は、保存建築物となっております。お客様の善意により、必要な場合は随時一般開放されることをお含み置き下さい」
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